home > 〈第2章〉聴覚刺激が脳力を向上させる > 2. 速聴®に“苦痛を感じる” 努力は不要

〈第2章〉聴覚刺激が脳力を向上させる

2. 速聴®に“苦痛を感じる” 努力は不要

「努力」というものは、必ずしも苦痛を伴わない

「『速聴力』を身につけるのに、無駄な努力はいっさい不要です。苦労は、すべて機械が肩代わりしてくれます」
「速聴」の評判を聞いて当社を訪れてきた人たちに対してこう言うと、怪訝そうな顔をする人がいる。私は、こうした人たちに、次のような話をすることにしている。
あらゆる文明は、人類の絶え間ない努力によって築かれてきた。これは、個人の歴史も同様である。たとえば、オリンピックの金メダリストは、自己を律する厳しい努力を重ねることによって、初めて勝利の栄冠をその手に勝ち取ることができるわけである。また、創業者は、血のにじむような努力を続けることで、会社を発展させることに成功したわけだ。


「発明とは、九九パーセントのパースピレーション(汗=努力)と一パーセントのインスピレーションによって成る」
これはもう十分使い古された、発明王エジソンの有名な言葉だが、まさに核心をついている。
彼は電球のフィラメント(電球の発光部分。「連続した長い繊維」というのが本来の意味。したがって髪の毛もフィラメントである)にさまざまな物質を用いて実に一万回以上、失敗を繰り返したが、誰かが、「一万回も失敗した」と言ったとき、直ちにこう言ってのけた。
「いや、それは違う。これまで用いてきた一万種類以上のフィラメントは、役に立たないということがわかっただけ。わかったことを失敗だなんていうかね?」
この言葉に代表されるように、人類の進歩の多くは努力(しかも楽観的な)の産物なのだ。もちろん、私もこれを否定するものではない。しかし……、と私は思う。


確かに、何かを産み出すのに努力は不可欠である。では、この努力には “苦痛” も不可欠な要素なのだろうか。私は必ずしも、それを絶対条件とは思わない。エジソンもおそらく同じ考えのはずだ。なぜなら彼は、発明することが喜びだったからだ。発明することが苦痛なら、とっくに投げ出していただろう。他人から強制されていたわけではないのだから。


私のこの考えを理解していただくには、まず “努力” の性質をいくつか分類する必要がある。ただし、純粋にこれは1の努力、これは3の努力などという区別はできない。相互に関連している、あるいは重なり合っている場合が多いからだ。ただ一応の目安としては、次のように分類可能ではないか、と私は思う。


1・・・本能的な努力[本能的]
呼吸その他、本能に由来する努力。一〇〇キロ先の恋人のもとに毎日通うのもこれに該当する。しかし当人は普通それを努力とは思わない。恋して通えば千里も一里というわけだ。


2・・・機械的な努力[自動的]
自発的だが、3以下の努力が「習慣」にまで高められると、この2になる。また、パラノイア(偏執病)のように、夜、家中の鍵が本当にかかっているか、何度も確かめたりする事例も含まれる。人間は程度の差はあれ、偏執的な性格の側面を持つ場合が多い。本書でも同じことの繰り返しが多いが、これは「はじめに」で述べたとおり、意識的にそうしたにすぎない。


3・・・受け身の努力[受動的]
何もしなければ生存が危うい、などという場合にする努力。この努力は、習慣になれば苦痛はさほど伴わない。無意識の努力も本来はこの範疇に入る。たとえば、危険の回避行動がそれだ。


4・・・恐怖による努力[消極的]
何もしなければ怒られる、などという場合にする努力。これには苦痛が伴う。


5・・・報酬による努力[積極的]
何かをすれば報酬を得ることができる、などという場合にする努力。苦痛はあるが、報酬に対する期待で相殺されることもある。本能的努力はこの範疇に主に属するが、次の6とも重なる部分がある。


6・・・自発的な努力[能動的]
自己実現などに向けて、自ら設定した目標を達成するために行う努力。第三者からは苦痛が伴っているように見えても、当人にとっては満足感がもたらす充実感がある。宗教的使命感もこの分類に属する。


このように分類してみると、努力というものは、必ずしも苦痛を伴うとはかぎらないことがおわかりいただけるだろう。
なかでも、6の「能動的努力」の場合、少なくとも主観的には苦痛を感じないケースもあることは、あなたもきっと体験したことがあると思う。5の「積極的努力」も、同様な場合がある。


以上のように、私が「速聴力を身につけるのに、無駄な努力はいっさい不要」というときの「努力不要」は、「何もしなくてもよい」というのではなく、「苦痛のある努力は不要」という意味にほかならない。
もっとも、いくら本人にとって能動的な努力でも、やはり苦痛を感じて、途中で投げ出してしまう場合もある。


たとえば、速読のトレーニングなどは、その典型といってもよい。
それに引き換え、「速聴」は、「やろう」という意欲さえあれば、あとはサイコフィードバック・システムで脳をアルファ支配(アルファ波が継続して出ていて、なおかつ深くリラックスしている状態をいう)にするか、シータ・ラーニング・システムで脳を覚醒シータ支配(睡眠時によく出るシータ波が、覚醒時に継続して出ている状態をいう。したがって「覚醒シータ支配」とも呼ぶ)にして、何倍かのスピードで再生される音声にさり気なく耳を傾けていればよいわけである。
もっともこのような装置がなくとも、時間を多少かければ結果は同じだ。この程度の努力であれば、一〇人中一〇人、例外なく持続できるだろう。

1ページずつ読む

速聴®でなぜ頭の回転が速くなるのか

このアメリカ産の速聴レコーダ(実際にはカセット・プレーヤなのだが、本書では一般に通称されている用語を用いた)は、音質の悪さにもかかわらず、非常に人気を呼んだ。テープの速さを二倍にしても、何とか努力すると、何を言っているかがわかるのだ。 しかし、アナログ式の回路を用いているため、二倍速にすると、こもったような音になってしまうのが欠点であった。


ところで、なぜ「速聴」によって頭の回転が速くなるのか。
実はこれはとても簡単な原理なのだ。
人間の大脳には音声を処理するための二つの領域がある。その領域(厳密には小脳等も関与している)が音声処理(言語処理)にかかわっているので、「中枢」と呼ぶ人もいる。
くどいようだが(事実、くどいが)、話をわかりやすくするため、ここでは「ウェルニッケ中枢」に的を絞って話を進めよう。


耳から入った音声は、すぐ「ウェルニッケ中枢」に達する。このことはすでに述べた。
しかし、もう一度、再整理してみよう。「ウェルニッケ中枢」にまで達した音声は、そこで二つの処理を施される。


1・・・電気信号化された音声の言語化
 レコード・プレーヤでいう「振動→電気信号→音声化」と同じようなもの。
2・・・音声の「意味」の確立
 つまり、入力された音声が、何らかの「意味」を持っていることを、脳のさまざまな部位から超高速で情報収集して調べあげ、その「音声」に「意味」をあてはめること。


「ウェルニッケ中枢」に入力された音声は、ここで初めてその音声が何を言っているのかが理解される。ここではまず、音声信号から言語符号への変換がなされる。と同時に、すでにストックされている長期的記憶や短期的記憶、全脳に配置されているさまざまな脳力が総動員され、「理解し得るように整理される」わけだ。「追唱」は、このような処理を行っているときに生じる「脳のつぶやき」である。


これは、音声だけでなく、目を通して視覚から入力された文章についても同じことがいえる。これもまた「ウェルニッケ中枢」に入力されて、「追唱」されるのである。
つまり耳で聴いたことも目で読んだことも、結局は電気信号となって「ウェルニッケ中枢」に至り、「追唱」されるわけだ。


そして約一〇〇分の一秒後に、その整理された音声はブローカ中枢に達する。
ブローカ中枢に到達した言語符号は、他の大脳の各中枢も参加して、その言語符号の意味内容に従って、行動なり、行為を起こす中枢に高速伝達されたり、あるいは記憶領域や感情領域に伝達されたりする。







耳から入った聴覚情報や目からの視覚情報は
「感覚性言語野」と呼ばれるウェルニッケ中枢[A]に送られ、
そこでそれらの情報の中から言語情報だけを理解する。
そして言葉として理解された情報は、言葉を発する際の顔や舌などの筋肉を
制御する働きを持つブローカ中枢[B]、別名「運動性言語野」に達する。
この2つの言語野が正常に機能して、
人間は初めて話し言葉や文章を理解し、会話することができるのである。

図2はウェルニッケ中枢内の脳神経細胞のイメージである。
星状のものが脳神経細胞(細胞体)で、そこから張り出した根のようなもののうち、
太くて長い一本の突起を「軸索」といい、
他の短い根のようなものを「樹状突起」と呼び、
これらすべてを含めたものを「ニューロン」という。
ニューロンは他の細胞体のニューロンと結びつき(これを「シナプス接合」という)、
そのシナプス接合の密度の具合によって言語情報の処理脳力が決定される。


なお、脳内の情報伝達は脳神経伝達物質によって化学的になされる、と説明されることがよくあるが、これは電気的に伝達されるという主張と対立するものではない。
なぜなら脳神経細胞の枝の末端(シナプス)は神経刺激物質(ホルモンも含む)によって情報の伝達がなされるが、シナプスをしてそのようにならしめるのは、活動電位(電気的な興奮のこと。電位という言葉は、たとえていうならば水位と同じで、電流は電位の高い所から低い所に流れる)の流れそのものだからである。


要するに、情報は電流として流れるのではなく、電気的な興奮が移動することによって運ばれるというわけである。しかし、それも広い意味では電流といって間違いではない。
ところが、この「追唱」の速度が遅いと、音声の理解力も読書の理解力も遅くなってしまうことがわかっている。たとえば、遅読などは「追唱」速度が遅いためである。


「ウェルニッケ中枢」といえども大脳の一部である。そこにも大脳神経細胞があり、その細胞同士が軸索を伸ばして、他の細胞とつながり合っているのは、これも他の大脳の部分と変わりない。ただ、違うとすれば、「ウェルニッケ中枢」は、音声処理と音声理解の専門部隊である、ということだ。
このことは何を意味するかというと、「ウェルニッケ中枢」さえ自分のものにすれば、他の大部隊、つまり大脳自体の働きを、いかようにも高めることができる、という事実である。


「速聴」の意義がここにある。「速聴」というのは、普段の数倍の速さの音声を聴くことである。その音声はどこで受け止められるかというと、実際、われながらしつこいとは思うが、「ウェルニッケ中枢」だ。「ウェルニッケ中枢」にとっては、これまで味わったことのない経験をすることになる。普段の数倍の音声がどんどん送り込まれてくるので、それに対処しなければならない。


どうやって対処するかというと、その中枢にある脳神経細胞同士のつながり(シナプス接合)を増やすしかない。そうすることによって、この“普通ではないスピード”を持った音声を、何とか処理し、理解できるようになる。つまり、頭の回転が速くなる、というわけだ。


しかし、二倍速の音声ではまださほど効果はない。もっとも昔は、それでも大した効果だ、と思っていたが。二・五倍速にしたらどうだろう。
「ウェルニッケ中枢」に普段より二・五倍速い音声を数週間から数カ月、一日三〇分ほど、入力してみる。これに対して、「ウェルニッケ中枢」は、さらに脳神経細胞間のつながりを増やして対処しようとする。


人間の脳神経細胞は、全体で三パーセントしか使われていないことは、周知のとおりだ。厳密にいえば、残り九七パーセントもそれなりに機能しているのだが、本書では的を絞っておく。使われていないということは、脳神経細胞同士が軸索によって接合されていないことを意味する。113ページに簡単な図を入れておいた。円いのが大脳神経細胞で、線は軸索ないし樹状突起だ。


こうして「ウェルニッケ中枢」の細胞間ネットワークが密になると、まず第一に「追唱」力が速くなり、同時に「理解力」が高まる。このことを別の表現をすれば「頭の回転が速くなる」、もっと簡単にいえば「頭がよくなる」ということになる。


そして、他のさまざまな脳力も確実に高まる。「洞察力」「判断力」「先見力」「集中力」等々、枚挙にいとまがない。何であれ、緻密なネットワークができあがったところに、普通の速さの情報を入力すれば、ネットワークには余裕ができているわけだから、まず「ウェルニッケ中枢」において、その情報はあらゆる角度から分析されることになる。
しかもほぼ同時に、その入力情報は他の大脳部分へパワーアップされて高速伝達されるため、受け止めた大脳部分も活性化せざるを得ない。


こうして、「速聴」は、子供から上は年齢に関係なく、誰にでも容易に習得できる脳力開発法なのである。「ただ聴くだけでよい」という容易さが、先ほど述べた速読とは比べものにならないくらいの効率のよさをもたらしてくれるのだ。
同時に、ひとたび脳内に「速聴回路」ができあがったら、よほどの長期間、“頭を使わない”かぎり、いきなり元に戻ってしまうということもない。世の中には種々多様なソフトウェアが販売されている。そういう意味でも、「速聴」は「生涯教育」に最も適しているのである。








ここに脳神経細胞が20個あるとする。そのうち使われるのは3%で0.6個。
30%だとしても6個しかネットワークされていない、網の目の粗い脳細胞の状態である。


通常脳細胞は加齢とともに減少していく。しかし、ネットワークを密にすれば、衰弱する細胞を補って、脳の働きの衰えをカバーすることができる。


「速聴」を始めると、その高速音声を理解するために、脳細胞は互いにその軸索を伸ばし、ネットワークの密度を高めようとする。
ただし、すぐに「速聴」をやめた場合、その効果は表れない。


3〜4倍速で「速聴」ができるようになると、ウェルニッケ中枢内のネットワークはさらに緻密になる。この状態で普通の音声を聴くと、会話の次の展開までわかると感じるほど、人の話がゆっくり聴こえるといわれている。

1ページずつ読む

縞栗鼠が“しゃべった”

私が中学生のころ、ソニー製のテープレコーダを両親に買ってもらったことがあった。まだ、学校の視聴覚教育用程度にしか普及していなかったころのことだ。もちろんオープンリールで、大きさ、重量ともに大変なものである。もっとも私が中学生だったという点を考慮すべきかもしれない。大きさはアタッシュ・ケース大であった。


今では、もうどのような内容のものを録音したのか、ほとんど覚えていない。南雲堂発行の『ハバナの男』のサウンド・トラックを何度も聴いたことは覚えている。確か、アレック・ギネスが出演していた。その中に「サブロウネスォフ・チーズ」という表現があり、半年ほどナゾ解きをしてやっとわかった、という記憶がある。
これは「ザ・ブルーネス・オヴ・チーズ」という意味で、「チーズの青味」であるということをやっと知ったときは、もっと日本人の英語のようにしゃべってほしいものだ、と本気で思ったものだ。


ともあれ、テープ独得の匂いと、それを早送りする際に、何かの加減で再生ヘッドにテープが触れて、キュルキュルと縞栗鼠のような音を立てるのを面白がって聴き入ったことはよく覚えている。
テープを普通より速いスピードで再生ヘッドを通過させると、そのテープに録音された音声は、全体に周波数が高くなり、何を言っているのか聴き取れなくなってしまう。


オープンリールのころから時は進み、一時代を築いたカセットテープも過去のものになった。 “カセット” という言葉は、“宝石箱” を意味するフランス語だが、なかなかシャレた名前をつけたものだ。このカセットテープを、今のような汎用的な規格で最初につくったのは、オランダが誇る世界的大企業、フィリップスである。


フィリップスは、自社の新製品を世界に普及させるという企業戦略をもとに、日本などの企業に対して、無償でその特許を公開した。この戦略はみごとに当たり、日本の企業は競ってフィリップス規格のカセットテープをつくり、あっという間に世界を席巻してしまったわけである。
ただ、特許を無償で公開するにあたり、フィリップスではいくつかの条件をつけた。そのうちの一つは次のようなものであった。


「テープのスピードは、一秒間に四・八センチでなければならない」
日本の企業では、この条件を忠実に守り、特許期間を過ぎた現在でも、ほとんどのメーカーでは「一秒間に四・八センチ」のスピードの製品をつくり続けている。
現行のように一秒間四・八センチで録音されたカセットテープを、その二倍以上のスピードで再生したとすると、それはまさに縞栗鼠のおしゃべりのようで、何を言っているのか理解するのはとうてい不可能だ。しかし、もしそれが可能になったとしたら、大変に素晴らしいことである。私たちが研究しているスーパーリスニングは、そこからスタートした。


一九八三年のことだが、当社に、かねて注文してあった一台のカセットテープ・レコーダが届けられた。一見すると、どこといって変哲のないテープ・レコーダのようだが、これにはアメリカで開発された特殊なアナログ回路が加えられていた。
その回路とは、カセットテープの再生速度を二倍に上げても、言葉が聴き取れるようなシステムのことだ。つまり、この新しい回路のおかげで、縞栗鼠の話し声が理解できるようになったのである。もっとも音質は最悪であった。
この機器を用いれば、一時間の話は三〇分で聴き取りができるから、残りの三〇分が節約できるわけだ。そればかりではない。速く聴き取ることによって、大脳の働きは活発になる。


もっとも、これは主として語学学習向けに開発されたものである。ほぼ同時期に、アメリカの陸軍が「速聴」に脳力開発の効果があるのを発見し、研究を始めたが、大きさと音質の点を改善できなかったようだ。


まず、大脳の中の「ウェルニッケ中枢」では、ものすごいスピードで聴覚神経から飛び込んでくる言葉を何とかして処理しようと夢中になる。これには長期・短期の各記憶も総動員される。必然的に注意力や集中力は高まらざるを得ない。
夢中になるうちに、頭の回転はますます冴えて、よくなってくる。このように、一石二鳥どころか三鳥にも四鳥にもなる、と考えた人間がアメリカにいた。彼はすでに述べたように、特殊な回路をつくってカセットテープ・レコーダに組み込んだのである。


その結果、縞栗鼠の話し声が理解できるようになった。このことは、私たちにとって大変重要な意味を持っていた。どのように重要なのかは、あとでより具体的に説明してみよう。
こうして、日本にアナログ式の速聴レコーダがもたらされた。これまで速聴テープを手づくりしていた私たちは、これをやはり脳力開発に絞って、多くの人に試してみた。
その結果、多くの人が頭の回転を速めることに成功した。なかには失敗した人(一割)もいる。テープの速さを二倍にすると、もうさっぱり何を言っているのかわからない。そして、この「わからない」が四〜五日続いただけで、「速聴」をやめてしまう人がいる。失敗とは、「物事を途中で放棄してしまうことである」と先に引用したナポレオン・ヒル博士は言っている。


私が失敗した人というのは、そういう人のことを指しているわけだが、何であれ最初は抵抗があるものだ。抵抗なくして脳力を向上させよう、などということは所詮無理な注文である。だが、当初私には、彼らがなぜわずか四〜五回のトレーニングで脳力開発をあきらめてしまったのか、理解できなかった。
そこで、やめた本人に追跡調査をしてみた。「あなたはなぜ途中でやめてしまったのですか」というアンケートを送ったのだ。そうしたところ、私の期待どおり? の答えが返ってきた。「あんなもの、いくら速く聴いても頭の回転が速くなるなんて考えられない」というのがその回答であった。つまり半信半疑で「速聴」していたのだ。


頭の回転を速くするには、頭が固くてはダメなのだ。エンジンならオイルを注すこともできるが、大脳にとって、それに匹敵するのは、決意と楽観性と好奇心である。よく大成した経営者がいう言葉だが、「素直さがなければ何事もうまくいかない」ということは、本当のことだ、と私はそのとき初めて思い知った。
と同時に、七〇〜八〇代の人々の中で本当に頭の固い人は、このような新しい技法を勧めてもまったく無駄なことがわかった。彼らはそれまでに経験した以外のことは、いっさい受け入れようとしないのだ。


さらに悪いことには、自分の頭が固くなっていることを認めようともしない。もっとも認めるくらいなら、頭はやわらかいともいえる。大脳がプラスチックではなくなったら、それは金属と同じ、つまりロボットと同じということになる。ロボットは組み込まれたプログラム回路以外のことは何もできないし、当然のことだが、それ以外、何もしようとしない。むろん七〇代、八〇代で頭のやわらかい人もいる。脳力の開発に年齢制限はまったくないのだ。

1ページずつ読む

音声はストレートに「ウェルニッケ中枢」にインプットされる

ところで目は、すでに述べたように、肉体諸器官の中で、衰えが最も早くやってくる。ことに四〇代、五〇代になると、老化は孤城落日のようにその速度を急ピッチで上げてくる。速読は、言葉を換えれば、この目の筋肉を酷使することで初めて成り立つのである。
酷使と書いたが、この場合、決して悪い意味ではない。普段使っていなかった目の筋肉をフルに使うということだ。初めはきついが、練習で慣れればあとは楽だ。


では、ある意味でトレーニングさえ不要で、さらに衰え始めた目に頼らず、しかも速読のように短時間のうちに大量に情報を脳に収める方法はないものだろうか。
こう考えるあなたは、もう一つ、目と同じく脳の出先機関である優れた器官を思い出すはずだ。それが耳であることは、改めていうまでもない。耳の利点は、脳と短距離で直結していることのほかに、目と違っていちばん衰えが遅い点にある。鼓膜は目のように、それを動かす筋肉が不要な点も利点になっている。動かしてくれるのは、外部から飛び込んでくる音声それ自体だ。


したがって、脳をアルファ支配、あるいは覚醒シータ支配下に置き、「速聴」をフル活用(脳波支配は必要条件ではないので、省いても構わない)すれば、耳は目に優る情報収集器官となってくれるのである。
しかし、より重要なことは、文章の理解という点に関しては、音声は耳からストレートに「ウェルニッケ中枢」にインプットされるが、文章は目から大脳の視覚野を経て、次に「ウェルニッケ中枢」で音声化されてからインプットされる、つまり、多少遠回りするという点だ。


いわゆる通常の「速読法」では、パターン認識という方法で脳に文章を写し取るわけだが、それでも、実際の文章を理解しようとするときは、そのインプットされたパターンを一つひとつ音声にして「追唱」しないと、完全な文章の理解は不可能なのである。
小説とか観光案内書などでも、そのような過程を経るわけだが、まだ楽なほうだ。しかし、法律書や科学技術書などは、そういう意味では速読があまり役に立つとはいえない。


そこで「速聴」にスポットが当てられるのである。
しかし、これまでの解説でおわかりのように、「速聴」そのものは、決して特殊な概念ではない。さらに、この「速聴」を身につけるのに面倒なことはまったくないのである。しかもこの「速聴」を手段とするさまざまな脳力の向上には、それに着手しようとする人をためらわせる“単調な努力”というものを必要としない、というのが特徴の一つだ。

1ページずつ読む

耳は脳と直結した情報収集器官だ

耳の穴(外耳道)は音が入るだけのものか、というクイズが出たら、×のボタンを押すべきである。耳の穴は音を入れるだけでなく、出してもいるのだ。これを耳音響放射と呼ぶ。
まぁ、そんなことはどうでもよいのだが、同じ内容の繰り返しで、あなたもそろそろ退屈しているのではと思い、付け加えた次第である。


さて、いくらサイコフィードバック・システムやシータ・ラーニング・システムを駆使しても、肉体の老化だけは(老化を促す遺伝子を取り去る以外)防ぎようがない。
目は、脳と直結した重要な器官だ。さらにいえば、外部に露出した脳以外の何ものでもない。私たちは、この目から間断なく脳に情報を送り続けているわけで、もし失明などという状態になったとしたら、脳に送られる情報量は激減してしまうことになる。もっともその代わりに、他の感覚が鋭敏になってこの不利を補うように、人間の体は実にうまくできている。


ヘレン・ケラーは、視覚と聴覚にハンディがあったが、その代わりに代償作用が働き、「触覚」が常人以上に発達した。彼女は演奏中のピアノのどこかに手を触れると、ピアノの曲が「聴こえる」という。日本に来たときも、琴の端に手を添えて「聴いて」いた。
とはいえ、一般人には単に響きが振動として手に伝わるだけだ、としか理解できない。報道するマスコミもそんな調子だった。
しかし、ヘレン・ケラーの触覚脳力は、そんな中途半端なものではなかった。実際に彼女の脳の中では、その微妙な響きを「音」としてとらえることができるのである。おそらく触覚神経細胞が、代償努力によって、大脳の音を認識する領域の神経細胞と直結したのであろう。


喜劇役者のエノケンが脚を手術で切断した後、もう脚は存在しないにもかかわらず、脚や足指を痛がった、という話が残っている。これは、脚の痛みを認識する大脳の領域が、切断部分(すでに皮膚で覆われているが)の一カ所が刺激されたことに反応したためである。
切断面には脚全体に分布していた神経繊維の束が残っている。だから、その束のうち、親指を司っていた神経が刺激されると、その刺激は大脳の「親指の痛み」を感じる部分に達し、親指が痛い、と感じるのである。
しかし、時間がたつと、この幻痛も消える場合がある。最近の研究では、大脳の担当領域が、別の体の部分を担当するようになることが確認されている。そうすれば、もう幻痛は生じようもない、ということになる。


ヘレン・ケラーの話に戻ると、それほど、人間の脳というのは驚異的なことを実現させてしまうのだが、私自身、ヘレン・ケラーの触覚脳力については、これ以上書けない。その「音」が私たちのいう「音」とまったく同じなのかどうかは謎だ。体験したことがないのだから、どうしようもない。


ただ一つ、面白い事実がある。超危険物質として厳重に管理されているLSD(リゼルギン酸ジエチルアミド)という化学物質がある。一時サイケデリックという言葉をはやらせた麻薬である。このLSDを飲んだ人々の多くが次のような証言をしている。


「色彩を見ると色彩が音として聴こえる」
「音を聴くとさまざまな色として見える」
「他人が何かしゃべると、それが香りとなって鼻で感じる」
「体を動かすと、手足が一〇メートル以上伸びる」


これらは、LSDによって脳内のホルモン・バランスに狂いが生じた結果である。
また、正常な人でも似たような経験を持つ人がまれにはいる。とはいえ、これはサイケデリカルなことではない。たとえば体の中の痛みというのは、当然、神経を伝わって本来は脳の痛覚を司る領域に至る。
ところが体内の痛覚神経は、しばしばショートするらしい。最もよく報告される例は、「心筋梗塞」の激烈な痛みである。神戸から近江まで高速道路ができると「神近高速」とでも名づけられるに違いないと、以前はよく友人に駄ジャレを言ったものだが、こちらのほうは、事故でも起きないかぎりサイフが痛むだけだ。


一方、心筋梗塞の場合、この痛みが、どうかすると脳の別の領域、たとえば歯の痛みを感ずる脳領域に迷い込むことがある。そうすると本来は心臓が痛いのに、右奥歯の激痛として感じたり、目に釘が刺さったような激痛を感じたりする。このように体の神経回路は、よく間違えることがあるのだ。


これらの事例を考え合わせると、ヘレン・ケラーは、自らの努力と体自身が持っている代償作用のために、振動を「何らかの音」と感じたとしても、少しもおかしくない。
そもそもヘレン・ケラーの脳は誰でも等しく持っている音声を感じ取る部分(聴覚野)を持っているのだ。その部分が存在するかぎり、振動がそこに電気信号として到達して、音として当人に聴こえるというのは、理にかなったことである。
ただこれは、相当の努力を必要とする。生まれつき耳が聴こえない人でも大脳の聴覚野は持っている(当たり前のことだ)が、そこの中枢には、これまでいかなる信号も伝わってきたことがない。


しかし、たとえばこの領域に、当人の努力により触覚から伸びてきた脳神経細胞が接触するようになると、振動の強さ、幅などの変化が「音」として聴こえるようになる。ヘレン・ケラーは「聴こえる」と自ら語っているのだから事実なのだろう。
ただすでに述べたように、私たちのいう「音」とまったく同一のものかどうかはわからない。脳神経細胞の腕(軸索や樹状突起)が学習によって伸びることは、すでに学界でも定説になっている。これを脳神経細胞の可塑性と呼ぶ。「塑性」、つまり「変形」が「可」であること、可能であるということだ。


ここでは脳神経細胞から出る軸索等が、学習によって他の脳神経細胞に伸びてつながることをいう。英語でいうプラスチックは、可塑性物質という意味だ。
いずれにせよ、耳から入った音も鼓膜の振動を聴覚神経が受けて「ウェルニッケ中枢」に達し、さらに音声を司る聴覚野も動員されて、初めて音として認識されるのである。決して鼓膜が音を聴き取るわけではない。鼓膜は空気振動を受け取るにすぎない。


したがって、機序(システム)は、ヘレン・ケラーの場合と少しも変わりはないのだ。ただ、ヘレン・ケラーは常人よりもその脳力が非常に高かったため、指そのものが鼓膜の代わりとなったわけである。
なお、これに関し、彼女は「骨伝導」で音を聴いたのだ、というご指摘を受けたが、骨伝導で音の増幅器である蝸牛が振動し、聴こえるようになるのは、頭蓋骨あたりまでとされており、指先からの骨伝導は、骨の振動が途中で減衰してしまうため不可能である。


ナポレオン・ヒル・プログラムの開発者として世界的に有名な、成功哲学の第一人者、ナポレオン・ヒル博士の次男は、生まれつき耳がなかった。しかし聴覚機能は備わっていたので、ヒル博士は「何らかの方法で聴こえるはずだ」と考え、蓄音器を買い与えた。奥さんはその子の気持ちを考え激怒したという。しかし奇跡が起こった。次男は蓄音機の縁を歯でかんで音楽を聴くすべをすぐ発見したのである。

1ページずつ読む

二〇歳を過ぎると速読脳力は急低下する

もう少し速読にお付き合いいただきたい。


「速読で、一分間に一〇〇万字読んだ」
「速読は、誰にでも簡単にできる」
「速読こそが、情報化時代に取り残されないあなたをつくる」
など、速読の謳い文句はそこかしこにあふれている。


しかし、驚くべきことに、これまで速読の開発者、またインストラクターとして活躍し、本まで出していた人で「速読スピードは水増ししたもの」、「速読は難しい」などと自著で速読否定、自己批判をしている変な人もいる。四柱推命の本を書き、よくその占いが当たるので大ベストセラーの記録を打ち立てた著者が、「あれは全部ウソ。中身は出鱈目」と言って筆を折った例もあり、世の中にはいろいろな人がいるものだと思う。


それはともかく、私は決して速読の否定論者ではない。ただ、速読のチャレンジャーたちは、その期待をほぼ確実に裏切られる、という現実は無視できない。
確かに、私の研究所でも、トレーニングを積めば、一分間に最大八〇〇〇字を読解することが可能という結果が出ている(ただし速読法による訓練ではない)。また、速読法をマスターした人の中には、一分間で一〇〇万字はともかく、一万とか二万字程度の文章が読解できるようになる人もいるという。しかし、もしそれが事実なら、あくまでも特殊なケースであろう。


教育学博士の佐藤泰正筑波大学教授は、「一万字読むというのは不可能」と眼球運動理論から断言されている。飛ばし読みや抜かし読みなら別だが、それは理解を伴う読みではない、といわれる(『速読の科学』講談社)。
しかし、カルチャーセンターなどで速読に挑戦してみるのはよいことだ。皆で学ぶということは、生きがいを生む。速読脳力に大きな変化がなくても、この場合、生きがいのほうが大切なのだ。


速読をやってみようという人には、いささかショッキングな話かもしれないが、当社でデータを集めて分析した結果、次のようなことがわかった(むろん、この公式に合わない例外者もいるが)。
「二〇歳以降、速読脳力は、一般的に幾何級数的に低下する」。幾何級数的にというのは、倍々に増加あるいは減少すること。たとえば二五六、一二八、六四、三二といったように次々と半減していくこともこれにあたる。


なぜそんなことになるのかと首をかしげる人がいるかもしれないが、原因は極めてはっきりしている。
「パターン認識脳力の衰えが、速読脳力を低下させてしまう」
人間の肉体には、一〇代の後半から “老化” がしのび寄ってくる。そして、この老化の兆候は、表面的にはまず目、そして歯、脚、耳の順で表れてくる。一方、脳についても、二〇代の半ばを過ぎると、老化が始まる。一般的には、四〇歳を境にしてボケの兆候が急増するとされているので、脳に関する真の老化は、このあたりからと考えてよいのではないだろうか。


いずれにしても、肉体、脳とも、あなたが想像しているよりずっと早く老化を迎えるわけだ。しかし学習脳力や創造力は、常に意欲を燃やして何かを学ぶ姿勢と運動などの刺激によって、神経細胞が新たに生まれることがわかってきた。


これはどういうことかというと、二〇〇〇年二月にワシントンで開催された神経新生シンポジウムでのアメリカ・ソーク研究所のフレッド・ケージ博士らの発表によると、脳神経細胞は新たに生まれることはない、といわれていた定説が、動物実験段階ではあるが、運動などの刺激によって、脳で神経細胞が新たに生まれたというのだ。
発表では、遊び道具のある広い環境下においた実験で、回し車で好きなだけ走ったネズミは、走ることができない環境下のネズミよりも多くの神経細胞が新生していたというのである。


その後、あらゆる脳科学者の間で研究が進められ、脳神経細胞は再生するという研究成果が発表されている。ご存じの読者も多いことだろう。
しかし、文章全体を、「読む」という刺激ではなく、「パターン認識」(あたかも写真のように、頭の中に一ページ全体を複写していく)する「速読法」は、大脳でのプロセスが複雑なので、どうしても年齢が増すごとに弱くなる。


世に、速読の天才とされる人は何人かいるが、そのほとんどは二〇歳前後の少年少女で占められているのだ。現実を知れば、それもむべなるかな、といったところだろう。
ただ、救いがまったくないわけではない。何度か紹介したように、当社では、脳をアルファ支配にすることによって、一分間に八〇〇〇字の速読力(ただし持続性はなかった)をつけることに成功している。そしてこれは、四〇代、五〇代の人についても有効なのだ(全員ではないが)。


通常、大脳がアルファ支配にあるかどうかを、自覚することはできない。そこで当社では、大脳からアルファ波が出ていることを知らせることによって、ますますアルファ波が出やすくなる特殊な装置を利用する。“サイコフィードバック・システム”というもので、この装置でトレーニングを行えば、ごく短期間で脳をアルファ支配下に置くコツを身につけることができる。


また、シータ・ラーニング・システムという装置は、呼吸法を用いて脳を覚醒シータ支配にする装置である。これは正しい呼吸に応じて内蔵の脳力開発ソフトウェアや語学ソフトウェアがストップ・ランするので、自己開発のみならず健康にもよい。
このシステムによって、「気」を強く出せるようになった人もいる。これらの人々は、もともと「気」を強く出すためにこのシステムを利用したのであるから、当然といえば当然だが、特にそう意識しないでも「気」を強める効果はある。これは正しい呼吸法によって大脳を覚醒シータ支配にもっていくものだから、開発者の意図とは異なるが、本来は「気」のためのシステムといってよい。


これらのシステムでのトレーニングの直後に「速聴」を行うと、速読脳力の開発向上を確認することができた。理由は簡単だ。いわゆる「速読法」はパターン認識という方法で、文章全体を脳に写し込む方法を取っている。


しかしアルファ支配(あるいは覚醒シータ支配)の直後に二・七倍速程度の「速聴」を三〇分ほど行うと、それを終えたあとでの速読は、文章の理解力を司る「ウェルニッケ中枢」が活性化されているまさにそのとき行われるので、文章を早く理解できるのだ。しかもパターン認識のように、複雑な処理を脳に求めないので、高齢者でも、比較的落ち込みが少ないのである。
こうして、「頭の回転」を速くすることにより、速読を達成しているところが、他の「速読法」とは異なっている。


しかし私たちはこの「速読法」の研究を一九八六年に放棄した。速読法が、まさにそのテキスト・ブックの中身の図式のように、入口から出口まで迷路のごとくなっているのと異なり、「速聴」は、「ただ聴くだけ」という極めて簡単なシステムになっているためである。
また、特に速読を意識しなくても、「速聴」をやれば自然に速読(一分間に一万字などというのは無理だが)が身につくのである。したがって、速読力は、他の多くの開発し得る脳力の一つということで十分、と判断された。


しかも「速聴」するソフトウェアも飽きのこない脳力開発プログラムで構成されているので、達成時にはさまざまな夢がある。ということで、いずれ「速聴」のほうが、速読法を駆逐するだろう、と判断したためだ。
それには速読は「速読法」というように「法」がつくが、「速聴」は「法」をつける必要がない。ただ聴くだけだからである。音のシャワーを浴びるだけだから、気分も爽快になる。


これは曹洞宗(九世紀に唐で禅宗の一派として成立。一三世紀前半に道元によって日本にもたらされた)の座禅の特色である「只管打坐」と同じである。この場合は只管(ただひたすらに)打坐(座禅すること。「打」は “to do” の意味)ということになるが、「速聴」は「只管打聴」とでもいえようか。
禅宗の一方の雄である臨済宗の臨済禅は、多くの修行、厳格で激しい教育、公案の重視など、曹洞宗とは対象的な禅法を特色としている。速読法はしたがって臨済的であるといえるだろう。「自彊して息まず(自分を励まし、努力をやめないこと)」(「易経」)という言葉があるが、おのずからやむことのない努力がそこには求められているのだ。


「速読」と「速聴」の機能はまったく異なる。
およそ3000字以上の「速読」は、文章を読むのではなく、
パターン認識(頭の中に、写真のように写し取ること)に切り替わる。
これはまた別の大脳領域を用いる。
しかし、「速読」の内容を本当に理解しようとするならば、その大脳領域で写し取った
文章を「ウェルニッケ中枢」に戻して、「追唱」する必要があるのだ。
これは牛の食事と同じである。
牛のような反芻類では、いったん咀嚼した飼料を、
前胃で発酵させ、再び口の中に戻して咀嚼する。
こうして消化を確かなものにするわけだ。
しかし、「速聴」をマスターしたときに速読力が向上するのは、
「追唱」の速度が速くなったことによるもので、
ことさら「速読」の学習をする必要はない。
ただ、この場合、2.7倍速以上で聴けるようになれば、効果はより顕著になる。

1ページずつ読む