〈第2章〉聴覚刺激が脳力を向上させる
3. 速聴®の世界に一歩踏み込めば、未知の自分の脳力と出合うことができる
誰でも脳力は無限に持っている
禅には「三昧境」という言葉がある。これは、座禅をすることによって、瞑想の世界に遊ぶことを意味する。
科学的な実験でも明らかになっているが、オシロスコープ(機械的振動や電圧などの時間的変化を観測・記録する装置。ここではブラウン管を用いたものを指す)で見ると、三昧境にあるお坊さんの大脳は、アルファ支配になっている。時間がたつと徐々に覚醒シータ支配になるが、別にコックリをしているわけではない。より深い三昧境に入っている証拠だ。
そして、こうしたときのお坊さんは、時間のたつのをまったく忘れているのだ。
いや、こういう表現は正確ではないかもしれない。そもそも時間の観念がないのである。したがって、集中力は通常の何倍、何十倍にまで高まっているわけだが、本人はそれを意識することはない。しかし、外界の音には敏感であり、砂に水がしみ込むように、それを吸収する。
私に話をしてくれたお坊さんは、これを、「一点の曇りもない鏡」と表現していた。この“鏡” という意味は、別の側面からいえば「脳力」と「潜在脳力」との間にある壁が消えたことを指す。これは “無” の反射効果(心を無にしたことによって得られるご利益とでもいおうか)といってよいかもしれない。あなたも、この “鏡” を自分の心の中=大脳に持つことができるのだ。
もちろんそれは、「速聴」によって可能になると、私は思う。まず、速く聴くことに慣れればよいだけのことだ。
速く聴くことを繰り返していると、まず最初に聴覚神経がそれに慣れようとして発達してくる。つまり、そのことによって、ごく自然に、注意力と集中力が培われるわけである。
聴覚神経がこのレベルまで向上し、かつ「ウェルニッケ中枢」が発達すれば、たとえ相手がどんな複雑な論理を持ち出してこようと、それにまどわされることなく、ズバリと事の本質をつかみ取ることができるようになる。
「ウェルニッケ中枢」では、猛烈なスピードで聴覚神経や視覚神経から飛び込んでくる言葉を何とか処理しようと夢中になる。こうして、大量の情報をアルファ支配下(あるいはシータ支配下、あるいは普通の状態でも多少時間をかければ)での集中力によって処理していくうちに、大脳全体が活性化し、頭は冴えわたってくるのである。
先に紹介した禅宗のお坊さんは、道場で修行したことにより、ふだんでも脳をアルファ支配にすることが可能だった。彼の場合、何年にもわたる座禅修行によってそれを体得したのだが、しかしサイコフィードバック、あるいはシータ・ラーニング・システムによれば短期間のトレーニングでそれが可能になるわけである。
彼自身も以前、研修で禅を学びに来る新入社員(経費の無駄使いだが)や、入門したての僧にサイコフィードバック装置を使わせると、アルファ支配になる期間が大幅に短縮されたと述べている。今どのような状態になっているかわからないと、励みにならないからだ。その点、アルファ支配や覚醒シータ支配下で、内蔵したソフトウェアが自動的に動き出すサイコフィードバック装置等を用いれば、早く効き目が出てくるのは当然のことなのだ。
「速聴」のキーを握るのは、アルファ支配か覚醒シータ支配、それに「速聴」それ自体だ。そしてすでに述べた普通の状態でも、多少時間をかけさえすれば、「速聴」はマスターすることができる。「速聴」をマスターするという表現は、曖昧かもしれない。少なくとも、2.7倍速程度までは聴き取れる状態になること、と言い換えてもよい。
この「速聴」の世界に一歩踏み込めば、それまでまったく未知であったさまざまな自分の脳力と出合うことができる。そして、その脳力はどんどん高まり続けることを知るはずだ。しかし、そのことに驚く必要はまったくない。なぜなら、あなたの脳細胞は、先ほど述べたようにたった3パーセントしか使われていないからだ。脳力の高まりというのは、そのパーセンテージがとりあえずほんの少し増えただけであり、「速聴」が開いてくれる可能性は、まだまだ無限に残されているのである。
アインシュタインの脳も、エジソンの脳も、本田宗一郎の脳も、松下幸之助の脳も、あなたの脳と少しも変わりがないのだ。ただ、ちょっとした素直さと好奇心があるかないか、まず初めはその程度のものなのだ。
脳をアルファ支配にしたとき、潜在脳力が顕在化する
以前、禅宗のあるお坊さんからこんな話を聞いたことがある。
そのお坊さんは、仏門に入る際、修行のため数年、山の中の道場に入ったという。当然ながら、道場の日課の中心は座禅である。彼は、毎日何時間も、壁に向かって座禅を組み続けた。それは、一〇時間を超すことも珍しくなく、なかなか大変なものだったという。
もちろん彼は、道場に入り座禅三昧の日を送る中で “悟り” を得ようとしていたわけである。しかし、意に反して彼は、修行の間これと自覚できる形で悟りを得ることはできなかったそうだ。失意のうちに山を降りた彼は、父の跡を継いで自分が生まれた寺の住職になった。
父親の人徳もあり、彼の寺には檀家の人たちが、さまざまな相談事を持ち込んでくる。父親が不在の場合、彼が相談相手になるのだが、そうしたことを続けるうちに、あることに気づくようになった。その「あること」とは、「相談を持ちかけてくる相手の心の中が、まるで手にとるかのごとくにわかる」というものだった。
もっとも、最初からそれを自覚していたわけではない。初めのうちは、「あなたはその問題について、こう考え、こうしたいと思っているのではないですか」という自分の問いかけが相手の意図するところと同じであっても、単なる偶然ぐらいに思っていたという。
しかし、その “偶然” が度重なるうちに、「どうしてなのか?」と疑問を抱くようになったという。彼は、原因を考え続けた。そしてあるとき、一つのことに思いあたったのである。
「私は道場で座禅を組むとき、常に「自分は “無” になるんだ」という心構えで取り組んできました。初めのうちは、俗世間のさまざまな雑念が頭の中に浮かんできて、なかなか思うようにはいきませんでした。
しかし、一年、二年と座禅を続けていくうちに、ふと、座禅をしている時間の長さがまったく気にならない自分の姿に気がつくようになったのです。つまり、その間私の頭の中は、まったく空っぽになっていたわけです。
『これが “無” になるということなのか』
私は、あとでこう思いました。もっとも『これが “無” か』などと思ったら、もはや
“無” ではない、という複雑なところがありますが、それはともかく、悩める人たちの話に耳を傾けるうちに、それが甦ってきたのです。
檀家の人たちの悩みを聴くとき、私の心は自然に “無” の状態になっていたのです。言葉を換えるなら、私の心は、あたかも一点の曇りもない鏡のようになり、相手の言葉の奥底にあるものをそこに映し出していたのでしょう。それで私は、相手の考えていることが、手にとるようによくわかったのだと思います。
私は、修行時代『これ』とわかる形で悟りを得ることはできなかったと思い込んでいました。しかし実際は、『心を無にする』という技術を、ある程度は身につけていたのです。私はこのことを『檀家の悩みを真剣に聴く』ということで、はっきりと自覚することができたわけです。
おそらく、禅僧の悟りはさまざまでしょうが、私は自分の得たもので十分に満足しています。そして今後は、それをより大きく育てていきたいと考えています」
彼は今でも毎日、座禅を組み、修行に努めている。十分に満足している、というのは謙であろう。座禅は、修行者をして大悟に至らしめることを必ずしも保証しないが、脳をアルファ支配、覚醒シータ支配にすることはできるのだ。そして、このような状態のとき、いわゆる潜在脳力が顕在化するのである。



